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お役立ちコラム

27河童

どうか Kappa と発音して下さい。

これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である。彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。彼は唯ぢつと両膝をかかへ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さへ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張つてゐた。)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしやべりつづけた。尤も身ぶりはしなかつた訣ではない。彼はたとへば「驚いた」と言ふ時には急に顔をのけらせたりした。……
僕はかう云ふ彼の話を可なり正確に写したつもりである。若し又誰か僕の筆記に飽き足りない人があるとすれば、東京市外××村のS精神病院を尋ねて見るが善い。年よりも若い第二十三号はまづ丁寧に頭を下げ、蒲団のない椅子を指さすであらう。それから憂鬱な微笑を浮かべ、静かにこの話を繰り返すであらう。最後に、――僕はこの話を終つた時の彼の顔色を覚えてゐる。彼は最後に身を起すが早いか、忽ち拳骨をふりまはしながら、誰にでもかう怒鳴りつけるであらう。――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだらう。出て行け! この悪党めが!」

三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。朝霧下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたつても晴れる気色は見えません。のみならずかへつて深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思ひました。けれども上高地へ引き返すにしても、兎に角霧の晴れるのを待つた上にしなければなりません。と云つて霧は一刻毎にずんずん深くなるばかりなのです。「ええ、一そ登つてしまへ。」――僕はかう考へましたから、梓川の谷を離れないやうに熊笹の中を分けて行きました。
しかし僕の目を遮るものはやはり深い霧ばかりです。尤も時々霧の中から太い毛生欅ぶなもみの枝が青あをと葉を垂らしたのも見えなかつた訣ではありません。それから又放牧の馬や牛も突然僕の前へ顔を出しました。けれどもそれ等は見えたと思ふと、忽ち又濛々とした霧の中に隠れてしまふのです。そのうちに足もくたびれて来れば、腹もだんだん減りはじめる、――おまけに霧に濡れ透つた登山服や毛布なども並み大抵の重さではありません。僕はとうとう我を折りましたから、岩にせかれてゐる水の音を便りに梓川の谷へ下りることにしました。
僕は水ぎはの岩に腰かけ、とりあへず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの缶を切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしてゐるうちに彼是十分はたつたでせう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンを噛じりながら、ちよつと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落したことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童と云ふものを見たのは実にこの時が始めてだつたのです。僕の後ろにある岩の上には画にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱へ、片手は目の上にかざしたなり、珍らしさうに僕を見おろしてゐました。
僕は呆つ気にとられたまま、暫くは身動きもしずにゐました。河童もやはり驚いたと見え、目の上の手さへ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へ躍りかかりました。同時に又河童も逃げ出しました。いや、恐らくは逃げ出したのでせう。実はひらりと身をかはしたと思ふと、忽ちどこかへ消えてしまつたのです。僕は愈驚きながら、熊笹の中を見まはしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔つた向うに僕を振り返つて見てゐるのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だつたのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帯びてゐました。けれども今は体中すつかり緑いろに変つてゐるのです。僕は「畜生!」とおほ声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追ひつづけました。
河童も亦足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になつて追ひかける間に何度もその姿を見失はうとしました。のみならず足をすべらして転がつたことも度たびです。が、大きいとちの木が一本、太ぶとと枝を張つた下へ来ると、幸ひにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。

そのうちにやつと気がついて見ると、僕は仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれてゐました。のみならず太いくちばしの上に鼻眼鏡をかけた河童が一匹、僕の側へ跪きながら、僕の胸へ聴診器を当ててゐました。その河童は僕が目をあいたのを見ると、僕に「静かに」と云ふ手真似をし、それから誰か後ろにゐる河童へ Quax quax と声をかけました。するとどこからか河童が二匹、担架を持つて歩いて来ました。僕はこの担架にのせられたまま、大勢の河童の群がつた中を静かに何町か進んで行きました。僕の両側に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひありません。やはり毛生欅の並み木のかげにいろいろの店が日除けを並べ、その又並み木に挟まれた道を自動車が何台も走つてゐるのです。
やがて僕を載せた担架は細い横町を曲つたと思ふと、或家の中へ舁ぎこまれました。それは後に知つた所によれば、あの鼻眼鏡をかけた河童の家、――チヤツクと云ふ医者の家だつたのです。チヤツクは僕を小綺麗なベツドの上へ寝かせました。それから何か透明な水薬を一杯飲ませました。僕はベツドの上に横たはたつたなり、チヤツクのするままになつてゐました。実際又僕の体は碌に身動きも出来ないほど、節々が痛んでゐたのですから。
チヤツクは一日に二三度は必ず僕を診察に来ました。又三日に一度位は僕の最初に見かけた河童、――バツグと云ふ漁師も尋ねて来ました。河童は我々人間が河童のことを知つてゐるよりも遥かに人間のことを知つてゐます。それは我々人間が河童を捕獲することよりもずつと河童が人間を捕獲することが多い為でせう。捕獲と云ふのは当らないまでも、我々人間は僕の前にも度々河童の国へ来てゐるのです。のみならず一生河童の国に住んでゐたものも多かつたのです。なぜと言つて御覧なさい。僕等は唯河童ではない、人間であると云ふ特権の為に働かずに食つてゐられるのです。現にバツグの話によれば、或若い道路工夫などはやはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでゐたと云ふことです。尤もその又雌の河童はこの国第一の美人だつた上、夫の道路工夫を誤魔化すのにも妙を極めてゐたと云ふことです。
僕は一週間ばかりたつた後、この国の法律の定める所により、「特別保護住民」としてチヤツクの隣に住むことになりました。僕の家は小さい割に如何にも瀟洒と出来上つてゐました。勿論この国の文明は我々人間の国の文明――少くとも日本の文明などと余り大差はありません。往来に面した客間の隅には小さいピアノが一台あり、それから又壁には額縁へ入れたエツテイングなども懸つてゐました。唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の寸法も河童の身長に合はせてありますから、子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不便に思ひました。
僕はいつも日暮れがたになると、この部屋にチヤツクやバツグを迎へ、河童の言葉を習ひました。いや、彼等ばかりではありません。特別保護住民だつた僕に誰も皆好奇心を持つてゐましたから、毎日血圧を調べて貰ひに、わざわざチヤツクを呼び寄せるゲエルと云ふ硝子会社の社長などもやはりこの部屋へ顔を出したものです。しかし最初の半月ほどの間に一番僕と親しくしたのはやはりあのバツグと云ふ漁夫だつたのです。
或生暖かい日の暮です。僕はこの部屋のテエブルを中に漁夫のバツグと向ひ合つてゐました。するとバツグはどう思つたか、急に黙つてしまつた上、大きい目を一層大きくしてぢつと僕を見つめました。僕は勿論妙に思ひましたから、「Quax, Bag, quo quel quan?」と言ひました。これは日本語に翻訳すれば、「おい、バツグ、どうしたんだ?」と云ふことです。が、バツグは返事をしません。のみならずいきなり立ち上ると、べろりと舌を出したなり、丁度蛙のねるやうに飛びかかる気色さへ示しました。僕はいよ/\無気味になり、そつと椅子から立ち上ると、一足飛びに戸口へ飛び出さうとしました。丁度そこへ顔を出したのは幸ひにも医者のチヤツクです。
「こら、バツグ、何をしてゐるのだ?」
チヤツクは鼻眼鏡をかけたまま、かう云ふバツグを睨

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